平成22年4月15日、当社は会社設立60周年の節目を迎えました。
創業当時の事を語る人とて少なくなりましたが、幸いにも当時のことを記録した文章が残されています。昭和55年5月、当時の中込幸一専務(のちの社長、平成6年死去)が、創立30周年記念式典のために書かれた文章です。中込製作所の60年を支えてこられた数多くの先人達に思いを馳せると共に、次世代に会社の歩みを正しく伝えていくために、文章をここに掲載致します。
リュックサックを背負って部品を買い付けに出掛けた創業の頃
薫風の五月、ここに創立三十周年記念式典を挙行できることを、全社員ならびに多忙のところを御参集いただきました外注各社のみなさまに対し心から感謝を申し上げる次第です。
社長が病気療養中でもあり、その全快を待って式典を挙行したく思っておりましたが、療養が長引きそうでありましたので、社長と相談の上、かくも質素に本日ここにその節をお祝いすることとなりました。
わが社は昭和二十三年、今から三十二年前に社長が米軍向けジュラルミン製トランクの組立をしたのが始まりです。当時は戦争直後のため、家族四人を山梨に疎開させたままで横浜は磯子の禅馬で工場を操業していました。朝食には黒パンをほおばり、リュックサックを背負って桜木町から一番の京浜東北線に乗り東京の立石にある愛国工業からトランクの部品の支給を受け、その日のうちに残業をし組み立てて納めていました。当時の社名は合資会社中込銅工所でした。
その後、岡村中学校脇にあった岡村製作所の工場に社内外注として入り、スチール家具の試作を受け持つようになりました。当時は今のような磨き鋼板がありませんでしたので黒皮鋼板の歪み取りから始め試作品を作っていました。
昭和二十五年に、今の機械工場のある所を岡村製作所の吉原社長の口利きで千田己代造氏から借り受け、同年四月十五日に中込鈑金工業有限会社を設立しました。その時から満三十年を迎えることになります。長くもあり、短くもあり感無量であります。


保土ヶ谷にロッカー専門工場を作り、社員数も二百名を超えた
会社設立後しばらくは朝鮮動乱の活況で繁忙でしたが、続く不況期は大きな苦しみの時期となります。材料を買う金が無くて、今も中浜町にある浜野歯科医院や斎藤たね店に、妻きみ江(母親)を借金の無心に走らせたりしました。社員には長期の遅配をし、大半の社員は給料がもらえず生活ができないため、一人辞め、二人辞めと、ほとんどが退職するなど大変な時期もありました。
三十年の歳月の中には喜びも苦しみも悲しみもありましたが、強く頭に残るのは苦しみと悲しみのことばかりです。昭和三十五年十月には保土ヶ谷工場に書庫ロッカー月産四千本の専門工場をつくり、昭和三十七年にはJIS表示許可も取得し、社員数も二百名を超えました。
しかし昭和三十八年にはお得意様との直販問題で受注を完全にストップされ、やむなく設備を現在の東芝住宅工業に売却し、一部の社員にはそのまま東芝住宅工業に移籍をお願いしました。
昭和三十九年七月には、東芝住宅工業に売却した設備機械が全然稼働しないので中込で戸塚工場を新設して動かしてくれと佐野鋼材(今のリバースチール)の新井社長から頼まれました。
受注ゼロ、社員数名から始まって三年間で売上月間二千万円、社員数四十八名まで持っていくことができました。しかしようやく利益が出始めたときに、浜工業の倒産やその立て直しなどの問題が発生し、互恵企業協同組合の決定事項として三社対等合併があり、またまた営業権がゼロで、設備と四十八名の社員を移してしまうことになります。
このように再三にわたる工場の新設、移設などにより、また四十年不況なども重なり、昭和四十一年六月期には急激な売上ダウンで帳面づら三千四百万円の赤字を抱え、支手の決済が出来ないような局面を迎えました。 当時は毎月二十日になると不二ベニヤの三井社長や天野クリーニングの天野氏の所に決済の不足資金を無心に行き助けてもらいました。この方々はわが社を救ってくれた恩人であります。


互恵グループより脱却し、自主独立経営の道を選択
昭和四十三年から四十七年は再建の時代でした。私も昭和四十一年十月に浜工業から中込製作所に戻って再建に必死で取り組みました。
昭和四十四年十一月十日、またまた佐野鋼材、新井社長より三億円の設備投資をして、薄板スリッター工場を中込で動かしてくれないかと言われました。これを引き受けるか、もしくは互恵企業協同組合のグループから脱却するか、二つにひとつの返事を迫られました。
結論は組合脱却を選択し、そのとき中込は独立宣言をしました。これが小さくても自主独立、独立独歩、独立自尊を決心した経緯です。
その後は順調に利益も確保でき、中小企業長官賞などの栄誉も受けることができました。本社工場の土地も昭和四十五年十一月と昭和四十七年二月に二回に分けてわが社の所有になり、金沢三号地移転の足掛かりになると考えております。資本金も創立二十周年と二十五周年に全社員に記念分配を行うなどして、昭和五十年に現在の五千五百万円にしております。 しかし、好いときは長くはないもので、昭和四十九年には第一次オイルショックにより受注が落ちこみ、仕事が激減しました。
蘇生術を開始し、中古品の再生を手がけたのもこの時期です。新製品開発をしようという決意で、真似でも良いから能率デスクを商品化して売ろう、バーゲンテーブルを開発してストアに新規参入しようと変わり身の早さで勝負してきました。こうして何とかこの時期も切り抜けてきました。しかし、昭和五十三年に久木製作所の倒産。わが社で取引していた業者からの兵糧攻めにあい、これらの倒産の解決、同族骨肉の争い、わが社の社員の引き抜き問題などあり、すべてを解決するのに昭和五十五年四月までかかりました。長期にわたる受難の時期となりました。これらの心労により社長もすっかり身体をこわしてしまいました。


金沢工業団地進出を目前にして次なる五十周年へ決意あらたに
過去三十年には工場を開始するにあたって機械まで貸与して下さった吉原社長をはじめ沢山の人達にお世話になりました。
途中で退職された人、立派に職責を全うされ定年退職された人、又あらゆる面で指導下さった人、お金を貸してくれた人。様々な人に限りない恩を受け、今日の中込製作所があることを素直に受けとめ、全社員と共に心底から感謝の気持ちで応えて「この節から芽を出し」次の工場建設を受注拡大に結び付けていきたいと決意する次第です。
社長は「人の一生は三十歳から四十歳までで決まる」と私に教えてくれました。わが社を人の一生に合わせて考えると、これからの十年が重要な時期になるわけです。重要な時期を迎えるにあたって遅ればせながら、わが社の《社是》をこの創立三十周年を契機に制定致します。
一、独立自尊
一、創意工夫
一、質素節約
一、感謝
一、利益確保
であります。我々一人一人の力は微々たるものです。縁あって同じ会社で共に働いている全社員と共に「みんなで働き、みんなで良くし、みんなで良くなろう」ではありませんか。
今日は苦節三十年のひとつの節目であり「竹も節があるからなかなか折れない」という教訓どおり、この節をひとつの区切りとしてまた次の三十五年、四十年そして五十周年の記念日が無事迎えられるよう、みんなで頑張ろうではありませんか。
最後に社長の病気が早く良くなるよう全社員で祈念し、私の挨拶といたします。
昭和55年5月
中込 幸一専務(当時)
~ 創立30周年記念式典での挨拶より ~

